《第25号》●希望の法則25 「惜福」「分福」そして「植福」――なぜ「植福」が幸運を呼ぶか?

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[vc_row padding_top=”10px” padding_bottom=”30px”][vc_column][vc_column_text]約100年前、幸田露伴は名著『努力論』で
幸福になるための努力の必要性を説き、
「惜福(せきふく)」「分福(ぶんぷく)」「植福(しょくふく)」
の「三福」の実践を、人生再設計の基本としてすすめました。
[/vc_column_text][/vc_column][/vc_row][vc_row padding_bottom=”0px”][vc_column][ultimate_carousel slides_on_desk=”1″ slides_on_tabs=”1″ slides_on_mob=”1″ arrow_style=”square-bg” arrow_bg_color=”#3083c9″ arrow_color=”#ffffff” dots=”off” adaptive_height=”on” item_space=”0″][vc_single_image image=”7260″ img_size=”full”][vc_single_image image=”7261″ img_size=”full”][/ultimate_carousel][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column][vc_column_text]●惜福=福を惜しみ、使い尽くしてしまわないこと。
●分福=幸福を他の人にも分かち合うこと。
●植福=子子孫孫、未来のために幸福の種をまくこと。

とくに、この三福の中でもっとも大切なのが
「植福」だと、以下のように「幸福三説 第三」に説いています。

「有福(*福を持つこと)は、羨むべからざるにあらず、
しかも福を有するというは、
放たれる箭(=矢)の天に向かって上る間の
状態の如きものであって、
力が尽きるときは落つるを免れざると均しく、
福を致したる所以(ゆえん)の力が尽きる時は
直ちに(ただちに)福を失うのである。

惜福(略)しかも福を惜むというは炉中の炭火を妄りに(みだりに)
暴露せざるが如きものであって、
たといこれを惜むことを至極するにせよ
(*長持ちさせるならば)新に炭を加うるあるにあらざれば、
別にその火勢火力の増殖する次第でもない
(注・火力は大きくならないと同じことだ)。
分福(略)福を分かつというは
紅熟せる美果を人と共に食うが如きもので、
食い了(おわ)れば即ち空しいのである。

人悦び(=喜び)、我悦べ(=喜べ)ば、
その時において一応は
加減乗除が行われてしまった訳なのであって、
要は 人の悦びを得たところが、
我のみの悦びを得たのに比して
優って居るに止まるのである。
(注・人が喜んでくれた分、自分だけで
喜んだことよりマシだ)」

幸田露伴が「三福論」を説いた
名著「努力論」から幸運を呼ぶヒントを抜粋紹介しましょう。

「有福、惜福、分福、いずれも皆好い事であるが、
それらに優って卓越して好い事は植福という事である。
植福とは(略)我が力や情や智を以て、
人世(注・世の中)に吉慶幸福となるべき物質や
情趣や智識を寄与する事をいうのである。」

「世に福を有せんことを希う(=願う)人は甚だ多い。
しかし福を有する人は少い。
福を得て福を惜むことを知る人は少ない。
福を惜むことを知っても福を分つことを知る人は少ない。
福を分つことを知っても福を植うることを知る人は少い。

けだし 稲(=米)を得んとすれば稲を植うるに若(し)くはない、
葡萄(ぶどう)を得んとすれば葡萄をを植うるに若くはない。
この道理を以て、
福を得んとすれば福を植うに若(し)くはないのである。」

どうでしょうか?
いやいや、この世知辛い世の中に、
「惜福」だ「分福」だ、ましてや「植福」などと、
悠長なことを言っていられないよ――と
いう人もいるかも知れません。

しかし、これからは老若男女が仲良く過ごす
「長寿時代」、いや「長寿病弱社会」です。
僕は、幸田露伴の「努力論」から
「三福論」を読んで、これからの処世の知恵、
実践努力の知恵を次のようの勝手に解釈してみました。
働き盛りの30代、40代になると、
「少欲知足」ということもだんだん分かってきて、
「惜福」の境地に立つ人も多いと思います。
そして、50代、60代で、
心身に余裕が出て「分福」の心得も付く。
さらに、僕も70歳になりましたが、
晩年になって孫たちが増えるにつれ、
やっと、身にしみて
「植福」の心得がついてきたように思っています。
あなたはどう考えますか?[/vc_column_text][/vc_column][/vc_row]