《第12回》続・台湾旅行記―運命とは「あきらめる」ものではなく「前進する」ものだ

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[vc_row padding_top=”10px” padding_bottom=”30px”][vc_column][vc_column_text]前回、第11号では「言葉は力なり――[/vc_column_text][/vc_column][/vc_row][vc_row padding_bottom=”0px”][vc_column][ultimate_carousel slides_on_desk=”1″ slides_on_tabs=”1″ slides_on_mob=”1″ arrow_style=”square-bg” arrow_bg_color=”#3083c9″ arrow_color=”#ffffff” dots=”off” adaptive_height=”on” item_space=”0″][vc_single_image image=”7260″ img_size=”full”][vc_single_image image=”7261″ img_size=”full”][/ultimate_carousel][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column][vc_column_text]

8月に台湾の『天仙液・患者大会』に行ってきました」と題して、難病や不運に見舞われても、自分の大事にしたい言葉を座右として、多くの人たちの縁を大事にすると、思わぬ勇気をもたらすものだ――という話を書きました。

いまのように不安多き時代になればなるほど、「ピンチはチャンス」といった言葉が勇気の源になりますし、「運」や「縁」を大事にして自分を前向きにして気分一新に努めることが大切になってきたと、僕は思っています。

ところで、ガン延命10年――、今度、台北の患者大会に出席して、生きる勇気をたくさん多くの人たちと共有したわけですが、さらに、台湾東海岸の花蓮という町や太魯閤(タロコ)という避暑地に行って、思わぬ機縁をもう1つ掴みました。

僕は、このコラムでも「大逆事件異聞――大正霊戦記――沖野岩三郎伝」というノンフィクション評伝を出版したことは前に書きました。

100年前に「天皇暗殺未遂・大逆事件」がありまして、これは前代未聞の言論封殺の暗黒裁判で、当時の自由主義者で天才的論客の幸徳秋水ら12名が絞首刑にされるたわけですが、この本は、その事件の渦中、奇跡的に嫌疑を免れて告発作家=「魂の伝道作家」となり、軍閥体制の弾圧にもめげずに活躍した沖野岩三郎というクリスチャン作家の80年の運命を描いたものです。

この沖野岩三郎という作家は、じつは僕の母方の祖父にあたる人で、なんと80年ほど前に、この花蓮や太魯閤に来て、講演旅行をしていたことが分かったのです。

僕は昭和10年には沖野が台湾に講演に行ったとは知っていたのですが、まさに「機縁」ですね。

まさか首都・台北から500キロも離れた花蓮、さらに奥地の太魯閤まで来て講演しているとは思ってもいなかったのです。

すでに、拙著「大正霊戦記」を読んだ人はお分かりでしょうが、(只今、増刷して全国書店で発売中)沖野は獄に繋がれた仲間たちの支援をしつつ、自らも「不穏分子」「非国民」と烙印をおされ、四六時中、刑事の監視、尾行に付きまとわれる難儀な日々を送っていましたから、これは「嘘から出た真だ」と運命の不幸を嘆きました。

しかし、若き日には明治学院の神学部に学び、のちに世界的な社会運動家として有名になった牧師・賀川豊彦や衆議院の副議長になった杉山元治郎らと日露戦争反対運動を起こし、「非戦、自由、平等」の理想を目指して、キリスト教的な人道主義を実践してきた人でした。

「私は弱いときに強い」と云う聖句を支えに、「悩んでいるだけでは意味がない」「運命をあきらめるのではなく、それを乗り超えて自由を勝ち取ることこそ人間の生き方だ」と鼓舞。

当時、多くの有名作家が弾圧の恐怖に沈黙していましたが、沖野は一人、200冊に及ぶ筆戦と1000回を超える舌戦で、事件の真相告発と、来るべき民主国家の夢を訴え続けたわけです。

もちろん、ストレートに事件の真相を書いてしまえば本は発禁になってしまいますし、講演は中止される。

いまでは想像を絶する言論封殺下の世の中でしたから、沖野は、巧妙に冗談話に変えたり、匿名を使ったり、小説や随想にまとめたり、大人の童話に託して話をしたわけです。

大正から昭和初期かけてはすさまじいばかりの多作で、とくに大逆事件を告発した長編小説「宿命」デビューの大阪朝日新聞以降、通俗的な小説を含めて、やまと新聞、報知新聞、福岡日日新聞、東京朝日新聞などに日刊連載、さらに六合雑誌にはじまり、改造、雄弁、中央公論、婦人倶楽部、婦人之友、主婦之友、婦人公論、文藝春秋などなど雑誌連載に筆の休まる閑がなかったほどですが、昭和の初年には、植民地だった台湾日日新報という日刊新聞にも「蒼白い貞操」という小説や随筆を連載し、講演にも出かけていたわけです。

沖野の台湾での様子を掲載した昔の新聞記事については、同行のKさんが台湾大学の図書館で丁寧に調べてくれたのですが、昭和10年1月18日の台湾日日新報に、「きのふ 着北の文芸家一行」と題して、4人の人気作家が台北に到着した模様が写真入で報じられていました。

沖野岩三郎は馬場孤蝶、村松梢風、平山芦江らと講演に来たようです。

その上には、旧大韓帝国皇族の「御着台の李王垠殿下」という記事が載っていますから、日本の軍閥体制がさらに侵略化、権力化する時代だったわけで、沖野は温厚にトーンで「人の運命」といった命題で講演を続けたようです。

1月26日には、台北から花蓮港に、当時は汽車ではなく、船で着いた様で、「文藝講演会」と題して以下の記事が載っています。

「花蓮港に於ける台湾実業界及台湾実業時代社主催の沖野、村松、平山三文士の文藝講演会は二十六日午後七時から昭和記念館に開催平山芦江氏は(人間道場) 村松梢風氏は(清水次郎長とその時代)沖野岩三郎氏は(人の運命)と題して熱弁を奮ひ、花蓮港始まっての東都文士の講演の事とて聴衆に多大の感銘を与へた」と。

沖野は「人の運命」と題してどんな話をしたのか?

自らの遭遇した大逆事件のことは、さらっと触れる程度でしたでしょうが、そおときは、若き日の非戦運動の仲間の牧師で、当時は衆議院議員(労働農民党)になって、農民改革に身を挺していた杉山元治郎の波乱の人生を引き合いにだして、「人の運命」について話をしていたと思います。

杉山元治郎は東北学院神学部を出てから、当時、初任給22円の時代にわずか1円50銭という薄給で、茨城県の農村伝道牧師に赴任したのですが、八沢浦の干拓事業に成功してから運命が開けて全国の農民に信頼される人となる――そうした「人の運命」の話です。

また、台湾日日新報は、さらに続けて次のようなことも報じていました。

「尚 沖野氏は二十六日タロコに到着 旅装を解かず薄薄蛮人公学校に赴き童話をなした」と。

沖野は、国内の不平等ばかりか、人種による差別を最も嫌った人でしたから、一人、先住民のアミ族やタコロ族の子供たちのためにも奥地に分け入って、心温まる童話を聞かせたというわけです。

当時、台湾の奥地の太魯閤は大理石と森林資源の宝庫で、激しい渓流の絶壁を切り崩して、トンネルや道路を作っていた時期で、行くのも大変なところだったと思いますが、そうしたことを厭わない性格がクリスチャン作家・沖野の真骨頂でもありました。

御伽噺や童話はもちろん、沖野の講演は必ずといっていいほど、回りからいじめられたり、弱いと思われている人が、じつは運命を克服して前進する、幸福を掴む偉い人だという話でしたから、国内はもとより、台湾、朝鮮、満州、そしてアメリカの日本人街の海外講演でも大いに人気を博したと思われます。

この夏、僕は台湾保養旅行をしたために期せずして祖父・沖野岩三郎の業績と教訓に触れたしまったわけですが、運命とは「あきらめる」ものではなく「前進する」ものだ――ということ改めて教えられました。

沖野の信念は、いつも聖書の言葉に強く支えられていたようです。

「私は弱いときに強い」という言葉をもっとも好んでいましたが、「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生み、希望は失望に終わることがない」という聖句が、弾圧の激しい世の中でも「自由、平等、非戦」を訴え続けるパワーの源となっていたようです。

二つの聖句は共に「新約聖書-ロマ書」に出てくるキリストの弟子・パウロの言葉ですが、沖野もパウロに習って、少しでも賢人・キリストに近づくように不運を乗り越えていこうと考えた、近代日本の文学者では珍しいタイプの人道主義作家だったわけです。

こうした聖句は、別に昔の話ではなく、いま不運に陥っている人にも大いなる勇気をもたらす言葉でしょう。

いい言葉ですから、みなさんも覚えて「言葉のパワー」を活用しましょう。

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こうした聖句は、別に昔の話ではなく、いま不運に陥っている人にも大いなる勇気をもたらす言葉でしょう。

いい言葉ですから、みなさんも覚えて「言葉のパワー」を活用しましょう。[/vc_column_text][/vc_column][/vc_row]